プロフィール
塾長 清田雄高
昭和42年生まれ 中央大学法学部卒
1999年より尼崎学習塾塾長就任
コラム
2020年11月9日(月)
教育現場でこの数十年、特に留意しなければならないのは発達障害の問題です(この段階では問題と書きます)。発達障害にはいろいろなタイプがありますが、教育現場ですからこれから述べる発達障害については学習障害に限定して書いていきます。もちろんそれ以前から発達障害の問題はありましたが、より世間で認知されたのでしょう。この10年「うちの子は発達障害なんです。」と告白される親御さんが目立ち始めました。統計によると発達障害は6.5%、15人に1人の割合なのですが、グレーゾーンも含めるともっともっと多いように思います。
いつも最初の面談で「著しい成績アップは難しいかもしれませんが、手助けできることはたくさんあります」とお伝えします。色々な生徒がいました。悪戦苦闘しました。それは苦労でもあり、楽しい思い出でもあり財産です。個人情報に最大限留意して書きますが、10個の英単語を覚えるのに1時間以上かかる、中1の国語の教科書が読めない、分数の計算が全くできない、色々な生徒がいました。総じて同学年のほかの生徒に比して幼い印象があります。指導の糸口を求めて書店日参しました。しかし発達障害のお子さんの具体的汎用的な勉強法を記した書物を見つけることはできませんでした。当面の結論は一人一人に則した指導、例えば語呂合わせで歌にしてみる、問題集を色付きのカラフルなものにしてみる、覚える量を小分けにする、書くのが苦手ならワープロにしてみる、お子さんのちょっとした反応を見逃さないというものです。総じて音読が一番有効に思います。(一人一人に則した指導は成績上位者にも有効です。教師は経験を積めば積むほど自分の指導法が確立しそれを押し付けようとしますが、実際は有効な勉強法はそれぞれ違う。僕は生徒が集中している時間の長さとやったことがその場限りでなくストックできるシステムになっているかを留意しています)
ここで突き付けられたのは発達障害の問題は生徒の課題ではなく、教える側の問題だということです。突き詰めると勉強とはなにかという問題です。
受験戦争以降、勉強は有名大学に入って一流企業に入るための手段とほとんどの人は考えているように思います。これでは途中で挫折すると勉強もここでおしまい。でも勉強ってそんな狭義なことでしょうか?本来は自己や取り巻く外界すべてを対象として色々なことを感じて想像、創造する感性を磨くのが勉強ではないのでしょうか。僕は休日ジョギングをしますが、いつもと道を一本変えただけでもいろいろな発見がある。初めての道でいつもと違う家にはいつもと違う人たちが住んでいる、暮らしぶりも全然違う。いつからやってるねんというお好み焼き屋さんから漂ってくる胃袋をガバっとつかむいい香り、古くても凄く手入れが行き届いた町中華のお店、休日の一家団欒の笑い声。でもそれらを維持するにはどれほどの苦労があるか。知命を過ぎても精神的には不惑にさえ至らず、弱音ばかりの僕の背中を押してくれるのはそういった人々の頑張っている姿です。何も遠い外国に赴かなくても日常の中に色々な発見がある。そのような発見を可能にする感性を磨いたり、論理的な思考を身に着けたり、情報の波にのまれず大事な情報のインプットを可能にするのが勉強だと思います。ですから、勉強は一生です。教師の仕事は子どもの選別ではなく可能性を提示すること。生徒達には知的好奇心を持てと言っています。食べ物や異性、生活に直結することはだれでも興味を持ちます。もちろんそれらも大事ですが、それらから遠いこと、アフリカでその日の命をつなぐ子供たちの不安、宇宙の成り立ち、古代の人々はどんな考えを抱いていたのだろうとか、より身の回りから離れたことにも興味を持ってくれたらうれしいですね。
そして、発達障害であろうと診断された子供たちに僕たちは何ができるのか。成功譚を挙げて美化しても実情は伝わりません。費用対効果の面で見れば誰も得をしません。お母さんは「こんなに月謝を払っているのになんでもっと成績上がらんの」と嘆かれます。子供は「いつになったら帰れる?何時?何時?」間断なく聞いてきます。聞かれるこちらもへとへと、そりゃあ叱られてばかりで好きでもないことをやらされるよりは、家でゲームでもしたいよね。教える方も大変。発達障害の子供の原理は快か不快かです。例え次の日がテストでもやりたくないことは全力で拒絶する。あの手この手で着手させてもそのような姿勢ではなかなか結果につながりません。まったく対策しなければ限りなくびりに近い状態を、なんとか180人中150番程度にもっていく。その次のテストでは148番、その次は152番、こんな具合です。この数字に何の意味があるのか、僕はあると思います。この30番の上昇は親御さんの思い、子供の頑張り、教師の苦労の結晶です。もし発達障害を理由に学ぶことを放棄すると、その3年、6年はどのように過ごされますか。クラブ活動に没頭できれば幸い。さもなければゲームをしたり、友達ととりとめのない話をしたり、それらは無為であるからこそ人生のかけがえのない1ページではあるけれど、中学生・高校生の本文ではありません。成長の機会を放棄することは人間であることの放棄に他なりません。また人生は本当に幸運な人を除いて、与えられたそう面白くない仕事を我慢しながら進むゆるやかな上り坂だとしたら、いやいやながらもとりあえず机に向かう、将来の徳のために今不快なことに取り組む忍耐力はきっと役立ちます。
もう十数年前、ある1人の男子生徒がいて、しがみつくように勉強して、こちらもまだまだ元気で深夜まで付き合って。
「僕アホやろ、だから人の倍勉強せなあかんねん」
が彼の口癖でした。時には珍回答でみんなを和ませてくれました。努力が実り進学、就職して今は社会人として一人前になっています。又、別の学習障害と診断された生徒は、勉強なんてやっても意味ないと嘯いていました。ただ、ある定期テストの結果がいつもより良かったのでほめてあげると、何か心の奥底がこそばゆいような、はにかんだ笑みを浮かべていました。勉強できたらいいなと一番願っているのは他ならぬ本人なのですね。
初心を忘れそうになった時、子どもたちとのかかわりが事務的になった時、彼らのことを思い出します。最後まで寄り添えたかなといつも自戒しています。難関大学合格を目指す勉強も180番から150番に上がる勉強も同等に尊い。